大会の沿革に代えて・・第12回全日本ペンテコステ教役者大会ニュースの巻頭言に投稿くださった大阪中央教会の鹿島外雄先生の文面をここに掲載させていただき、JPFの始まりから第11回までの大会の様子をお伝えできればとねがいます。鹿島師は大会の初期から常置委員としてご尽力され特に後輩の教役者がこの大会に参加されて霊的一新に与られるように色々と心配りをされてこられたことはこの大会の影の大きな支えでありました。
1901年ペンテコステの聖霊が、再び教会に注がれて以来、御霊の働きは次第に世界各国に広まり、日本にもその恵みが伝えられて半世紀になる。
しかし、戦前の日本ペンテコステ教会は文字通り揺籠時代で、盛んにペンテコステの花咲き、著しく果を結ぶといった教会は現れなかった。しかし、戦後に及んで聖霊の働きが各所に起って、御霊の恵みが日本の各地に広がり、昭和三〇年の後期には、同じ信仰の群れの交流が始まり、有志が相集り合同聖会などが開かれ、初めて日本ペンテコステ親交会として、第一回聖会を開いたのは、昭和四十一年西宮市の甲子園聖書教会での集りで、翌四二年一〇月、松山市道後で第二回大会が行われ、これには、各地区より一〇〇名以上の同労者が参加し、この大会より全国的規模をもつ大会が形作られる動きとなった。
次いで、第三回大会は、四三年二月愛知県犬山のユースホステルを会場に開かれたが、翌四四年は会場を首都東京に移して、オリンピック記念青少年センターで開かれ、主題聖句は、「神の賜物を再び燃えたゝせよ」 (第二テモテ一・六)で、当時常置委員は一五名で、和田寿恵松師が委員長であった。こうした動きの外、地方別に聖会が開かれたり、海外より講師を迎えた聖会やセミナーなどが開かれて、われわれ日本のペンテコステ各教会の成長に大きく役立ったことを忘れてはならない。
第五回大会は、北九州市門司の「めかり荘」で開かれ、講師は万代恒雄師とスタンレー師、セミナー講師は溝口師、坂本師、加来師、力丸師等であった。次いで、第六回大会は、四六年京都市本能寺会館、講師に米国よりD・ショック師を招いた。
第七回大会は、四七年二月兵庫県有馬温泉にて開かれ、講師は韓国の李一師、米国のマク・マスター師であったが、この大会参加者は七、八十名で大会の最も低調時代であった。
翌四八年二月の、第八回大会は別府市松葉屋で開かれ、米国ポートランドのアイヴアーソン師を講師に迎えた外、西原博師を講師に特にアイヴアーソン師によってレストレーションの真理が開かれた大会として、大会に新しい局面を開く大会となった。
これより先、一部有志の間に海外に会場を移して開く大会構想が生れて、森谷、西原、D・カップの三師が聖会委員となって米国側との折衝に当り、ハワイにおける開催が決定した。これは文字通り画期的なことで、四九年二月ハワイ、ホノルルのグレース・バイブル・チャーチを会場に、事実上日米合同の大会となって、日本より一〇〇余名が参加したが、われわれ日本人の耳目を驚かす大会でこれが転機となって、日本の諸教会にレストレーションの信仰が力強く導入された感がある。
次いで五〇年二月の第一〇回と五一年二月の第一一回大会は、伊豆の天城山荘で開かれたことは記憶に新しいところで、事実霊的において飛躍的な大会となり、続々参加者が増加して、第一一回は四〇〇名に近く、最早同山荘では限度に達したため、本年二月の第一二回の大会は、三重県鳥羽のシーサイドホテルを会場に当て、前回同様韓国の趙牧師とオーストラリヤよりカナー師を講師に迎えたが全国より集った会衆は、ペンテコステ諸教会はもとより、文字通り超教派的容相をもつ大会となって五〇〇名以上の人々が集った。
今日この大会は、日本のペンテコステ緒教会間では、最大の教役者大会といった規模を備え、ペンテコステ運動の旗手として終末的大リバイパルに向って力強く前進していることは主の栄光とし感謝に堪えぬ。・・・1977年4月号から転載
1966-2025 日本ペンテコステ親交会歩み

